佐高信さん

(評論家)

 「純血種」を持ち上げ、ヘイトスピーチを叫ぶ人々は、ある意味「玉ねぎ」と一緒である。皮をむいていくと、最後には何も残らない。つまり彼らは、生活や社会における拠り所がなく、自らを支えるつっかえ棒を持っていない。その弱さから、寄りかかる「何か」を求め、社会的弱者の在日コリアンらを攻撃の的にする。「純血種」だって、血筋を何代も前に遡れば気づくことだろう。人間はみな「混血」なんだ。朝鮮半島の血が混ざっている人も少なくない。なのに、そのことを認めようとしない。
 友人の子どもが米国の学校に通っていた際、授業で作文を書くことになったそうだ。テーマは“I’m different”。髪の毛の色や瞳の色、背丈、優しさなど、心身の違いを作文に綴っていく。みんな違いがあって当たり前。だが日本では、家庭、学校、会社、社会で同調圧力が押しつけられていく。同じことをしていれば怒られない。違うことをすると叩かれる。これではおかしいじゃないか。みんながそれぞれの個性を持っているのだから。なにごとも違いから出発しないと。
 もう一つ話しておくなら、ルネサンス時代のイタリアでは孤児が「インノチェンティ 」(無辜な)、つまり罪なき子と呼ばれていたという。どのような形で生まれてきても子どもに罪はない、子どもは社会の公共の財産であるという考え方が、ルネサンス期の人間中心の文化にあった。そのような思想が社会を形づくっていたからこそ、文化や芸術などさまざまなものが花開いた。一方、日本では婚姻関係にない男女間に生まれた婚外子が、「私生児」と呼ばれ、軽蔑されてきた。
 安倍晋三や麻生太郎をはじめ血統にしがみつく為政者たちには、違いを認める逞しさが著しく欠如している。だから日本政府は、国民の税金を「違い」が目立つところ、朝鮮学校には支給しないと言い出す。小池百合子のような差別主義者も同じだ。関東大震災時の朝鮮人犠牲者の追悼式に、都知事名の追悼文を送ろうともしない。
 日本には、学生時代に模範回答しか答えず、社会に出てもマニュアル通りに働いてきた、そんな官僚ばかりだ。だから、コロナウィルスの感染が拡大している昨今の緊急事態にも、全く対応できていない。日本の政治家のひ弱さや無能さ、日本社会の病根が日に日に露呈されている。
 今の日本社会に欠けているのは、絶望だ。こんなことを口にすると、他の人たちから、気持ちが暗くなると言われる。だが、もっと絶望と直面しないとだめだ。なぜなら、絶望的な闘いの中からしか希望は生まれないからだ。目の前の問題と本気で闘う人間がどれくらいいるかで、社会は変わってくる。

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