top of page
有識者の声.png
河津聖恵.jpg

河津聖恵さん

(詩人)

 十数年前まで在日コリアンとの交流は殆どなかった。「朝鮮新報」のコラムで私の詩が取り上げられたのがきっかけで、在日の文学者や詩人の方々との交流が始まった。その後まもなく、ある映画会で地元の京都で起きた初級学校襲撃事件を知り、とてもショックを受けた。事件を契機に朝鮮学校を見学する機会に恵まれ、その時目にした教師と生徒のとても良い関係に感銘を受けた矢先に、朝鮮学校が高校無償化の対象から除外された。新聞の一面を見て「どうしてあんな良い学校が?!」と目を疑った。
 それから、朝鮮学校出身の詩人と二人で主宰し「朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー」を出した。朝・日合わせて79名の詩歌人たちが、無償化除外反対、差別反対の感情から直接に言葉を紡いだもの。朝鮮学校の子どもたちの痛みに即座に共鳴出来る清冽な感情の持ち主が79人もいたことに、自分自身が深く励まされた。
 今回の幼保無償化除外は、高校無償化除外のときよりも朝鮮学校だけを狙い撃ちした印象は薄められ、問題の本質を曖昧にはぐらかそうとしているが、それも日本の悪い面をあらためて見せつけられるようで、嫌な気持になる。他の外国人学校一般にまで除外の枠を広げているが、それは日本が将来、多くの外国人の労働力に頼らざるをえない事実とも全く矛盾する。そもそも憲法が定める教育権、そして歴史的経緯および社会の不十分な差別対策の実態を鑑みれば、民族教育の権利は当然、保障されなくてはならない。
 「朝鮮」という名を冠するがゆえに冷酷に差別する。冷酷に保身に走り、切り捨てる。その冷酷さの実相は、臆病、弱さ――怯懦(きょうだ)である。日本人の私には日本の怯懦がダイレクトに伝わってくる。怯懦とは日本人にとって最大の呪縛と言ってもいいだろう。日本人は互いに怯懦の縄で縛り合っている。
 各種学校幼稚園の幼保無償化適用をもとめる署名に賛同したが、私の場合は単純な理由で、「当たり前だから」という直球的な感情に促されたから。高校無償化除外に反対した時と同じく、言葉以前の、人間としての本能的な怒りや悲しみの情動、あるいは義憤が自分の中に生まれた。
 怯懦という古くしぶとい縄は、例えばこうした社会問題で「人間として当たり前だ」という感情によって、それぞれが内側から解くしかないのではないだろうか。日本には差別という悪の感情が根深く存在しながらも、一方で差別感情を許さない善の感情も失われず潜んでいると今も信じている。そのような強く朗らかな人間的な感情を励ます言葉を、もっと深め、また、増やしていきたい。

bottom of page